子どもの体調と幸福感

子どもの体調悪化ほど、親の心をかき乱すものはない。

お盆明けから、子どもの体調が良くない。

夏休みの最終週は1週間の入院を余儀なくされ、始業式には間に合わせようとしてたのに、今朝になって発熱が高く、急遽かかりつけの小児科にかかり、そのまま紹介状をもらって大病院へ。

今は、小児科外来で診察待ちだ。

スポンサーリンク

子どもがいないだけで

結婚して子どもができるまで、長く夫婦二人きりだったが、その時と、子どもが入院して二人きりになった時とでは、全く違う。

家族を公正する大きなピースがなくなった喪失感というのが、言いようもなく大きい。

子どもの行事で、家にいないというのとは全く次元が異なる。そこに居ない、という空虚感が半端ないのだ。

だから、入院してた時は、家にいるより、面会時間の最初から最後まで、病室に夫婦でいた。三人でいたかったからだ。

幸い、命に関わる重い症状ではない。それでも、ずっと同じ場所で時間を過ごしたいと思った。

 

当たり前が、当たり前でなくなった時。

「なんでもないようなこと」と言うが、そういう日常こそが、何より愛おしいのだ。

ゆっくりとした変化と断絶

家族というのは、子どもの成長に伴い、少しずつその当たり前が変化していく。

家族中心の子どもも、友達との関わりが占める場所がどんどん大きくなっていく。

そして、独り立ちし、新たな家族を作って、また戻ってくる。

じんわりとした変化は、少しずつ対応すればよく、なんとかなる。しかし、強制的で、突然の変化は、日常を失う痛みが大きくなる。

子どもが健康を損なうといううのは、そういう突然の強制的な変化だ。断絶と言っていい。

その場にいたか・否か

そんな断絶の渦中において、その場に立ち会えたか・そうでなかったかは、大きな違いを生む。

子どもが入院する、そんな時、わたしは近鉄線の山奥にいた。東京に戻るのに4時間近くを要する。面会可能時刻までに病院に行くことは不可能だった。

 

自宅に帰っても子どもはいなく、がらんどうの暗闇が待っているだけのようなイメージがした。なんとも言いようのない絶望感に似たようなものがこみ上げてきてた。

生き死にに関わる大病ではないことはわかっていても、どうしても大げさに考えてしまう。

自分の身の上ならなんとか対処できることでも、子どもとなるとなんとも我慢ができないものだ。

特に、その場に立ち会えないと、必要以上に身を切られるような痛さを感じてしまうのだ。

日常こそが愛おしい

これまで、幾度となく一時的に失われ、その度に強く、「日常の愛おしさ」を感じる。日常を営む上でな些細なトラブルやストレスは、実はなんてことはない。日常が確保されているだけでかなり幸せなのだ。

当たり前と思っている日常は、忘れがちだが、些細なことで失われてしまう。そして、不条理でもある。

そんな大きな断絶を前にして、不平不満をぶちまけても、何も生まない。

それはせっかく登った山頂で霧に包まれた時、霧に対して悪態を吐くのと同じだ。私たちにはコントロールできない。そうしようと思うだけ、おこがましいことなのだ。

最善を尽くせるか?

不条理を受け止めつつも、その中で希望を見出し、笑うことのできる強さを持ちたい。希望を見出したり、笑いに転化させるのは、わたしでコントロールできる。

思うに、最善を尽くすとはこういうことを言うのではないか?

あらゆる不条理を受け止めて、自らの不運を嘆き恨むことなく、自分のできること、コントロールできる範囲内で、希望を見出し、行動する。それが最善を尽くすということなのではないか?

では、何をするか?

子どもを笑わせ、妻に笑顔で接し、暖かい空気を熟成すること。皆を楽にすること。

苦しい時こそ、かくありたいものだ。

よく読まれている記事

スポンサーリンク

編集後記

病院というのは、待つことだけで疲れます。しかも、検査で色々と行ったり来たり。子どもの手前、わたしが疲れを見せるわけにはいきません。が、シンドイものです。でも、笑顔笑顔!

本ブログ記事の感想、ご意見などございましたら、お気軽にコメント欄にご記入ください。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です