タイムマネジメントスキルと多忙感

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南アルプス北岳より富士を望む

多忙感に苛まれると、タイムマネジメントのスキルアップを期待する。

「やるべきこと」を「可処分時間」の範囲内で効率的に完了させて、「自分のための時間」をより多く確保したいからだ。

スキル向上に伴う逆説

タイムマネジメントスキルが向上すると、時間当たりのパフォーマンスが向上する。今までできなかった量を余裕を持ってこなすことができるようになったり、アウトプットの質を向上することができたりする。

そうなると、「もっと多く」のことがしたくなってくる。貪欲なのだ。タイムマネジメントスキルが向上すればするほど、有効に時間を使うことができ、非効率な時間の使い方はしなくなってくる。そうすると、高性能な機械のようにどんどんとこなす量を多くしてしまう。追いかけてしまう。

さらにレベルアップするから、ますます実施量は増えていく。自分は手際のいい人間で、有能だと思えるようになってくる。

しかし、多忙感はますます大きくなっていく。多忙感を克服することに酔いしれているから、多少の多忙さでは物足りなくなってしまう。

そうして、常に多忙な状況に陥ることになり、それで満足してしまっている。

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量は全てを凌駕するか?

経験が未熟なうちは、「量」を多くすることで成長のテンポを早めることができる。数多くの経験を積むことで、ありとあらゆる状況に対応できるような応用力だって身につくかもしれない。

しかし、いつまでもそれでいいのか?というと、それでは単なる歯車に過ぎず、組織も社会も、それで良しとはしてくれない。

効率的に数をこなすだけの、「エセプロフェッショナル」は百害あって一利なしだ。

マニュアル的な対応しかできないのならば、システムやプログラム、仕組み化と呼ばれるような組織としての体制で対処する方法に取って代わられたら、もう何も残らない。価値を生むのは、「仕組み」や「仕掛け」を作り、自分以外の誰がやってもオペレーションが回るようにすることだ。

効率的に数をこなすには、見切りが必要になってくる。手間がかかることは一切手をかけなくなってしまう。でも、手間がかかることは誰かがやらなくてはならない。それを他人に押し付けるような人、見て見ぬ態度をする人は組織において迷惑以外の何物でもない。手間がかかることを仕組みとして手間がかからないようにすることが、大切だ。それには時間がかるし、労力を必要とする。でも、効率優先では、そのような手間をかけようというインセンティブが働かない。

簡単に数をこなすことができるようなタスクは、経験の浅い人が経験豊富な人のサポートを得て経験値を積むために存在するようなものである。経験を積んだ人がいつまでも、獲得経験値の少ないタスクをやってはいけない。必要な人にそのチャンスを与えるようにしなくては意味がない。

量から質へは、難易度を上げていくということ

ある程度経験を積んだら、「量から質へ」の転換をなくてはならない。「質」とは難易度のことだ。

  • 複雑怪奇で、これまで誰を手をつけることができなかったこと
  • 重要だが、急ぎではない案件
  • いつかやろうと思っても、いつまでも手をつけることができなかった案件

こういったものは、難易度が高いものが多い。見当たらなければ、「本来なら上司がやるべき仕事」を先取りしたっていい。そして、美味しいところを上司に差し上げればいいのだ。

簡単なことは、マニュアルを与えたり、仕組みを導入したり、教育したり、適切な助言をすれば、自分以外の多くの人が実行することができる。遂行することができる。

しかし、難しいことは、「自分にしかできない強み」を発揮して、自分がやることだ。

そうしていかないと、レベルアップなんてできやしない。

難しいことをやるためのタイムマネジメント

そうすると、タイムマネジメントの本質が変わってくる。

効率的に量をこなすという発想から、難しいことをやるための余裕をいかに確保するかが問題となる。時間を細切れにして、隙間時間に難易度の高いことをすることは不可能だ。よく考え、準備をし、分析をして、関係者の同意を得たり、根回しをするなどの余裕がどうしてもいる。特に考え事をするには、誰にも邪魔をされない、集中して、しかもリラックスした状態を必要とする。

そういった、生産的なゆとりの時間を用意しなくてはならない。

ひたすらに量を追い求める足し算としてのタイムマネジメントから、難易度が高いことをするための考える時間を確保する「引き算としてのタイムマネジメント」が求められるようになる。

すなわち、「多忙感をコントロールするタイムマネジメント」だ。

方向がまるっきり逆になるのだ。

充実感をどう実感したらいいのか?

しかし、さらなる問題が存在する。そして、自分はその渦中にいる。

「多忙感」は、容易に充実感をもたらしてくれる。成果が目に見えるからだ。数で数えられるのだ。とってもわかりやすい。

しかし、「難易度が高い、重要だけれども急ぎではないこと」を時間を十分にかけて実行している時、そんなに簡単にことは済まないから「充実感」は得られにくい。むしろ、試行錯誤が続くために精神的に苦しくなってしまいがちだ。

そうなると、自分を納得させるために「量」追いかけてしまいたい誘惑にかられるのだ。それに負けてしまうと、元の木阿弥だ。永遠に、「重要だけれども急ぎではないこと」を完了することができなくなってしまう。

難易度は数値化できない。数値化できるのは、やるべきこと、正しい答えが分かっていることにたいてだけだ。未知のことは数値化できない。難易度のレベルだってわからない。完了して初めて難易度がわかる。そんなものだから。

では、どうやって充実感を感じられるようにするか?それは、自分の時間をどれだけ割くことができたのか、という実績の積み重ねしかないように思う。

Aという重要だけれども急ぎではないことについて、「XX時間の時間をかけて解決策を考えることができた(普通はこんなに時間を使うことはできない)。私って凄い!」と、自画自賛できる才能が必要になるだろう。

いわば、「究極の自己肯定」と言えるのかもしれない。当然ながら、そこに至るまでの道は険しそうだ。まだ自分自身、どこまで近づくことができたのか全くわからない。

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編集後記

とっても、久しぶりの投稿となりました。

経験を積めば、積むだけ、また新しい発見というか、気づきを得ます。ブログの中での時間経過に伴う論説の進化は、すなわち自分自身の進化となる。そういう、進化、進歩をブログに足跡として残すのも悪くないでしょうね。

本ブログ記事の感想、ご意見などございましたら、お気軽にコメント欄にご記入ください。

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