でっち上げの被害に遭わないようにするには?

まるで出来の悪い、悪夢か、あるいはミステリー小説を読んでいるかのようだった。

福岡市で2003年に発生した、「教師によるいじめ事件」とされた冤罪事件を扱ったものだ。

なぜこの本を手に取ったのか? 自分自身、未だによくわからないでいる。
別段、この手の冤罪事件に興味があるわけではなく、被害者に思い入れがあるわけでもない。ただ、普通とは違ったバックグランドを持ち、周囲から浮きがちな人がだと、こうした被害を受けやすいのではないかと思っている。

自分もそんな立ち位置に近いので、なんとなく身につまされるような感覚を覚えたので、手に取ったのかもしれない。

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このノンフィクションから学ぶこととしたら

  やましいところがないならば、
  対立を避けようと、安易に妥協して謝ったり、
  相手の主張をとりあえず無条件に認めたふりする
ようなことをしてはならない。

というところだろう。兎角波風を立てないように、その場しのぎで取り繕っておこう、などという解決策が、ボタンの掛け違えのように、後々になってまずい初期対応として取り返しのつかない事態を招くことがあるということだ。

つまりは、

  • なんとか、丸く収まるのでは?
  • 騒ぎを沈静化することができるだろう
  • 周囲に迷惑をかけずにすめば

などといった、下手な大人の妥協をしてはならないこともあるのだということだ。そういった、誘惑には負けてはならない。

嘘も方便

とも言うが、自分に非がないのにもかかわらず、「誘惑」に負けて「非」を認めるような嘘をついて、事態を打開しようと思ってはいけないのだ。

冤罪に巻き込まれるか、最後の一線で踏みとどまれるのかは、ここにある。

さらに言えば、自分を守ってくれる組織を味方につけておくことだ。特に上司との信頼関係を構築しておくこと。悲劇は、上司たる校長と教頭から、疑いの目で見られてしまったことから始まっている。

「でっちあげ」の悲劇

福岡市「教師によるいじめ」事件(ふくおかし「きょうしによるいじめ」じけん)は、2003年、福岡市の市立小学校の男性教諭が、アメリカ人を先祖にもつ児童に対して、人種差別に基づくいじめを行ったとされた事件。
福岡市教育委員会が全国の教育委員会で初めて「教師によるいじめ」を認め、教諭を懲戒処分としたことで、マスメディアでも大きく取り上げられた。
しかしその後、報道は収束。メディア報道のあり方も問われた。
2013年、福岡市人事委員会は「いじめ」の事実は認められないとして、懲戒処分を取り消した。

第三者的に公平な視点で事実関係を捉えることは難しい。
外部からは、真実というのは全くうかがい知ることはできない。

しかし、歴然として、事件に伴う結果はわかる。
教師の主張が認められ、一度下された「停職6カ月間」という非常に重たい処分は10年間という長い時間を経てようやく取り消しとなっている。

そういう前提があると、この「でっちあげ」で語られている悲劇が、真実に近いところにあるのかもしれないと、信じることのできる話だと思える。

とするならば、この事件での被害者は一体誰だったのだろうか?

教師本人も被害者と言ってもいいが、むしろ当事者である。曖昧な暴力を肯定するような発言をしなければ、方便で嘘をつかなければ、毅然としてやってないことを主張していれば、ここまで問題はこじれなかったに相違ない。

被害者は、彼が担任していたクラスの生徒一人一人だ。

たった一人の児童の両親からの申し入れで、監視付きの授業になり、その後担任が途中で変わってしまって、挙句には「殺人教師」としてレッテルを貼られている。そんな先生の教え子たちは、どう折り合いをつけていったらいいのか、大いに迷ったことだろう。

まったく、とんだ迷惑である。災難であったとしか言いようがない。

産休により途中で担任が代わることがあるにしても、1学期の途中で担任が代わるのは異常事態だ。このことが、最大の悲劇であっただろう。

もし、自分の子供がそんな目にあったとしたら、果たして自分はどうしただろうか?

もし、同じクラスの児童の親だったなら

1審では、どの親も教師のための証言はしなかったそうだ。

それはそうだろう。厄介なことには巻き込まれたくはないからだ。
大体において、PTA活動を真っ向から否定して、アメリカかぶれした価値観を持ち出して
「自分の子供は自分で守るから、PTA活動には参加しません」
というような演説ぶるような、アホな親とは関わりを持ちたくないはずだ。

きっと、「『あの子』と同じクラスになるなんて、ついていないな」と思ったことだろう。

だから、この裁判においても逃げることにしたに違いない。

それが、1審で教師に問題があったことが認められてしまうと、話は異なる。子供が黙ってはいられなくなるからだ。もちろん成長もしている。親子は、教師のための弁明の証人になるべきだと考えるようになるだろう。実際そのようになって、証言をしたが、裁判の進行の問題により証拠として採用されなかった。

さて、自分ならばどうなのか。1学期の途中で起きた事件なので、まだ教師と親との信頼関係はできていない。なので、私だって様子見したことだろう。これが2学期の事件で、信頼関係が構築できていたのならば、迷うことなく、教師を弁護する証言をしたことだろう。

そういったデリケートな時期に起きたことだからこそ、事件発生当時、校長と教頭は、一人の親の苦情だけを信じるのではなく、他の親と子供にも十分な配慮の上で確認をすべきだっただろう。

もし、当事者の教師だったのなら

突然、この本に記されているような状況に陥ったら、本当に困る。

が、そうならないように前もってすべきことはいくつかあったはずだ。

新任の教師ではないのだから、4月に赴任してきたばかりの校長だとはいえ、十分に上司と部下としての信頼関係を構築する努力をしておくべきだっただろう。

それが困難だったとしたら、せめて教頭や教務主任などの上長との信頼関係を十分に作り、「そんなことする奴じゃない」と親からの苦情を一蹴してもらえるような強固な関係を作るべきだったはずだ。どこかで、「危うさ」を露呈していたなら、この事件のように教頭や同僚からの援護をもらえなくなってしまったことだろう。

もちろん、事件の発端への軽率な対応も非難されるべきことかもしれない。しかし、臨機応変で素早い対応を心がけていると、こうした不測の事態というのは起きやすいものだし、取り立てて批判できるものではないと思う。

ただ、その後の対応に問題があったわけで、その際に生きてくる「上司との信頼関係」が不十分だったばかりに、悲劇に飲み込まれてしまったのだろう。

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編集後記

ずいぶん前に書いた原稿でしたが、なかなか見直しが終わらず、散漫な文章になっていたので、公開を遅らせていました。

ブログに向かう自分の姿勢が、最近の1ヶ月うまくいっていませんでした。その辺の話は、別の投稿にでも。

本ブログ記事の感想、ご意見などございましたら、お気軽にコメント欄にご記入ください。

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