「不幸と最悪」論

今年は自分にとっていい年だったか、良くない年だったのかを振り返る時期になりました。

そんな話を母と電話でしているときに、ふと「不幸」とはなにか、なにをもって「最悪」とみるかという定義のことにつて思い至りました。

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思い通りにいかなかったからといって不幸ではない

自分の期待するところ、目指すところに至らなかったからといって、それで不幸なのでしょうか。確かに幸せではない、でしょうが、不幸とまで言い切れることなのでしょうか。

どんなに自分ができる限りのことをしても、準備を念入りに行っても、周囲の協力を得ることができたとしても、「うまくいかない」ことはあるわけです。自分でコントロールできる範囲に「成功」はないからです。どうしても、自分の努力の及ばないところの影響を受けてしまいます。

それだからこそ、非合理的とは分かっていながらも「神頼み」をするのではないでしょうか。

神様がいるかいないかは関係ないのです。自分の力ではどうにも及ばない「何か」の影響を意識して、謙虚になって、自分は精一杯できることをやるのだと言い聞かせる行為が、「神頼み」なのではないかと思うのです。

簡単に言えば、どんなに準備をしても、「天気をコントロール」することはできないわけです。起業の準備を尽くしても、「時流」に乗ることができなかったら「コンセプトは間違ってないと思うけど、10年早かったね」というような慰めにもつかないことになってしまうことはあるわけです。

でも、それが不幸の極みであったり、「人生における最悪の状態」というわけでもないだろうと思うのです。

ただ、それはあくまでも結果であって、それ自体に良いも悪いもないのです。良い結果として捉えるのか、悪い結果として捉えるかは、その人自身の問題です。

不幸とは何か、最悪とは何か

愛情の反対は、憎しみではなく、「無関心」である、といわれるように、不幸とは幸せの逆ではないと思うのです。「徒労感」なのではないでしょうか。

無関心と同じように、自分がよかれと思ってやった行為が、まったく誰にも相手にされず、むしろ有害な行為として非難されてしまうような状態に陥ることではないでしょうか。期待した結果が出ない以上に、まったくなんの手応えも得られない方が、遥かにキツいといえます。前進しているのか、後退しているのかも分からないのです。

わたしには、「不幸というのは、激しく繰り返される徒労感」なのではないかと思うのです。そういう状況が、「最悪な状況」といえるのではないでしょうか。

不幸の極地が学習性無気力

限りなく繰り返される徒労感、すなわち、「なにをやってもだめ」なことが繰り返されると、学習性無気力と心理学でいわれる状況となります。

これは最悪です。自分の価値、社会における役割を見失うからです。「自分はなんの価値もない社会の寄生虫のような存在だ」と思い込んでしまい、必要以上に自分を責めてしまうでしょう。そんなことはなく、生き続けるだけですごいことなのに。

そういった最悪からいかに抜け出していくのか?

そんなことを今、真剣に考えています。

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編集後記

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