見えないカウントダウンを意識する

父が胃がんで入院し、遠く見舞いに行くたびに感じていたことがあります。

それは、

あと何回父と言葉を交わすことができるか分からない

けれども、「見えないカウント・ダウン」は確実に進んでいって、いつかは言葉を交わすことができなくなる日がやってくる、というものでした。

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永遠と思われる日々にも終わりはある

でも、こういったことは、父をおくることだけに限りません。

意識的する、しないは別として、人生のあらゆることは、無限のように思われるけども必ず有限であって、いずれ終わりがくるのです。そうとは分かっていながら、それを認めたがりはしませんけども。

一方通行の子どもの成長

私には、9歳になった娘がいます。

おとーさーん、と無邪気に呼びかけてくれる日がいつ終わるかも分かりません。

抱っこをせがんだのは、もうずいぶん前のことになってしまいましたし、おむつなんて遙か昔のことです。

それでも、だっこひもでだっこして保育園に通った日々のこと、保育園に入園するにあたって、ベビー服を大量に用意したり、大量の洗濯で部屋の中がベビー服で埋もれてしまった日々など、忘れられません。

会社を5時45分きっかりに出て、6時30分までのお迎え予定の時間に間に合わせるように走って、電車に乗り込んだこと。秋田に出張し、3:00ごろの新幹線に飛び乗らないと、お迎えに間に合わないため、お客様からの帰り道を猛ダッシュで走り、そのあと風邪を引いて寝込んでしまったことなど、とても懐かしい思い出です。

そして首もとに絡みついて、私の背中や肩、頭の上をジャングルジムのように登ったり、肩車状態で馬乗りのように乗り上げ遊んでいたことなど、「体感」の記憶として深く刻み込まれています。

残念ながら、もう二度とそのような日々は戻ってきませんが、夢だったり、ふとした瞬間に、そのときの感覚が不意に戻ってくるものです。それは、しっかりと経験したことだから、そして、幸せなときだったから、すべての感覚で覚えているのでしょうね。

黄金の時をもとめて | Lifehacking.jp
それでもきっと私はもう一度、この小さい子が「パパー」と呼ぶ声をこの耳で聞いて、暗闇におびえてしがみつくのを慰めて、横に寄り添って眠ることができるのなら、どんなものでも投げ出してかまわないと思うのではないでしょうか? それが容易に想像できるのです。 …

こういうことは、過ぎ去ってから「黄金の時」と感じるものであって、その最中はひたすら現実と向き合い必死になって生きていたのだな、と、懐かしむことができる歳になりました。

親との別れだけではなく、子どもの成長。子どもにともなう親同士のつながり、同窓のつながりも、時間の経過にともなって、必ず終わりがやってきます。

見えないカウントダウンは進む

そう思うと、人生とはその一瞬、一瞬がすべて輝くような貴重なものであり、一期一会という言葉が意味するように、「また、再び」の機会は一切保証されていないのだ、という厳しさを感じます。

なのに、普段の私と来たら、また今度、というものを頑なに信じますし、いや、信じたいですし、まだ無限とも思える時間を共有できるのだと、ナイーブに思い込んでしまいやすいものです。

でも、そうはなりません。

娘も小学3年生。都内の小学生ということもあり、もう中学受験の話が本格化しています。まだ4年後だというのに、先の長い話です。それと一緒に、無邪気に小学校生活を満喫できるのも、そうそう長いものではないのです。

家族でどこかに出かけようという回数自体も、カウントダウンの針があって、少しずつ残りの機会が減っていきます。週末は塾だったり、習い事などで時間がどんどん取られるようになるでしょう。そして、子ども同士で遊ぶほうがもっともっと、楽しくなっていくはずですし、、、

意識したくはないのですが、確実に、何かの機会という見えないカウントダウンは少しずつ減っていくのでしょう

確かにそう。でも、少し違うかな。

今は、今だけ

今という機会は、今しかないということを忘れないようにしたいものです。

娘の9歳の6月は1回きりなのです。9歳の娘と41歳の私が交錯するのは一瞬。

いずれ、娘の背が伸び、私は老いの方向へと進むでしょう。そんなバランスの中で、私たちは毎日を送っている。この1日は、一度きりだというのに、そのありがたみを忘れて、いや考えようともしないで生き急いでいる。

急いで前に行くことは大事なことかもしれないけれど、スピードを上げれば上げるほど周辺視野は狭くなるというもの。日々の大切なものを見落としてはいないでしょうか?

平凡なものほど見落としやすいが、大切な時

だからこそ、平凡さの中に潜むものを大切にしていきたいのです。

今日は運動会だから子どものビデオを撮るのではなく、ありふれた日常的なものこそ、ビデオに残しておくべきです。そうすることで、ふりかえると、あのころの娘は、いつもこんな風だったね、と過去の日常をありありと思い出せるようになるのでしょうから。

スマホの普及で、こうした記録と記憶の接点をつくるのはとても手軽になりました。だからこそ、活用したいもの。

見えないカウントダウンは進んでいく。

私の残りの人生の日数も減っていく。

自分にできることは、一つひとつのカウントを慈しむことであり、様々な種類の記憶を蓄積していくことだけ。そして、それを補助する記録を適切にとることだけなのです。

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編集後記

週末は家族で、伊勢原から大山に登ってきました。かなりの急勾配と距離でしたが、娘も登り切ることができました。成長を感じる一日でした。

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